審判者であるイエス   詩篇67篇

 先週読みましたように、イエス・キリストはダビデの王座に座られる王です。

その王は正しい審判、正義を行なわれる王です(イザヤ9:7)。

そのキリストに対して、詩篇67篇の記者は「すべての国々の民があなたをほめたたえますように」と2回も叫んでいます(3,5節)。

この叫びは一体何でしょうか?

[1]この世は神の正義が損なわれているという叫びです

 正しい審判者である神は、今の世に悪の介入を許しておられます。

悪を行ってもそれがまかり通ることもある世です。

裁判が間違う事もあります。

いわゆる冤罪です。

しかし、この世で義が踏みにじられた最大の冤罪があります。

それが、キリストの十字架です。

義なる神まで殺してしまうほど、この世は悪がまかり通るのです。

だから詩篇の記者は叫びました。

「あなたがほめたたえられるように! 」

[2]正しい審判をなさる神を示そうという叫びです

 さらに詩篇の記者は「あなたの道が地の上に、あなたの御救いが・・知られるため」と叫んでいます(2節)。

救われる時に神の愛が分かります。

そして、悪の働く世にあって神を恐れて生きようと思うようになります。

そのようなクリスチャンの生き方がこの世に神の正義を示すこととなります。

正しい審判をなさる神、報いを与えられる神を人々に証しする者となりますように。

[3]やがて神の正義が川のように流れるという喜びの叫びです

「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」(アモス5:24)。

旧約の預言者アモスの願いはダビデの王座につかれたキリストが再び来られる時に成就します。

詩篇67篇の記者もその事を信じて喜び叫びました。

まことの審判者の審きがあります。地が産物を出す時が来ます(6節)。

キリストを信じて来た者が報われる時です。

信仰に立ち、愛を動機として生きて来て良かったと喜び合う時が来ます。

 主の主、王の王であるキリストの御国を待ち望みましょう
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王なるイエス   Ⅰ歴代17:7~15

 来月はクリスマスを迎えます。

そのイエス・キリストについて目を留めましょう。

「いったいこの方はどういう方なのだろう」(マルコ4:41)。 

Ⅰ歴代17章でダビデは神殿を建てようと考えました。

しかし、主のご計画は逆でした。

「主があなたのために一つの家を建てる」との約束を彼は聞きました(10節)。

具体的には、彼の子(ソロモン)の王国を確立されることでした(11節)。

また、「その王座をとこしえまでも堅く立てる」ことでした(12節)。

しかし、ダビデもソロモンもその王座は一代限りでした。

ですからこの約束は、イエス・キリストによって完成されるものと言えます。

[1]キリストはこの世に王として誕生されました

キリストの誕生を知った博士達は「ユダヤ人の王」に会いに来ました(マタイ2:2)。

人類の敵である悪魔の誘惑を退けました(ルカ4:13)。

嵐を静めました(マルコ4:41)。

ろばに乗ってエルサレムに入場されました。

預言された王であることを人々に示されたのです(ゼカリヤ書9:9)。

しかし、この世の王とはなられませんでした(ヨハネ6:15)。

[2]今、キリストの王国が見え始めました

キリストの十字架と復活により、罪と死の解決が完成

しました。その時に、キリストの王国が見え始めました。

①それは、信じた人々の心の中です。

キリストは「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言われました(ルカ17:21)。

キリストに明け渡した人々の心の中に王となって支配してくださいます(Ⅰテサロニケ5:15~18)。

②教会の頭として臨在しておられるからです。

「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1:22)。

ですから、教会は2千年もの間、愛し合い、祈りあう神の家族として世に存在してきました。

福音を全世界に伝える群れとして世界中に広がりました。

 永遠の王であるキリストを礼拝し、やがて来るべきキリストの王国を待ち望みましょう。

完成者であるイエス  ルカ14:25~35

 先週と同様に、イエス様の回りには群衆が大勢おりました(25節)。

ヨハネ6章では、イエス様の奇跡を見たいと思っている人々がおりました。

また、パンを求めている人々もおりました。

ルカ14章25節で、イエス様はその群衆に「向いて言われた」とあります。

イエス様はどうしても彼らにご自身を真に分かって欲しいと思われていたからです。

イエス・キリストは何よりも優先されるべきお方です

「自分の父、母、妻、子・・・自分のいのちまでも憎まないものは、わたしの弟子になることができません」とあります(26節)。

「憎む」とは、それらのものよりもイエス様を価値あるものとして優先させることです。

人間は、悪いものよりも案外“良い”もので“最善”の価値あるものを見失いがちです。

イエス様との関係をなによりも優先させるべきです。

イエス・キリスト無しには何も出来ない自分・・・イエス様はそんなお方です

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)。

世の中では、建築を完成させるためには費用を計算します(28~30節)。

また、戦いを交える時に兵の数を計算して戦います(31~32節)。

私達は、自分の持ち物や能力をいくら計算しても不十分です。

それらは魂の救いには関係ないものです(詩篇49:8)。

平安も、勝利もありません。

自己により頼む時、結果は敗北しかありません。

イエス・キリストは完成者です

「それは人にはできないことです。

しかし、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)。

自分にできないことはイエス様がしてくださいます。

イエス様は、私達をご自身の弟子として完成してくださいます。

クリスチャンにとってその信仰こそ塩のもっている「塩け」です(34~35節)。

無くてならないものです。

徹底してイエス様を優先し、明け渡し、従いましょう。

イエス・キリストは私達の完成者です

御国に向かう生涯(3)  ルカ 5:1~11

 御国に向かって旅する私達の生涯は決して楽ではありません。

しかし楽しい旅です。

なぜなら主が共におられるからです。

主と共に十字架を担いながら歩むからです。

キリストのために担う十字架があります(3節)

 漁を終えたペテロにキリストは舟にのせて少し漕ぎ出してくれと頼みました。

浜辺に集まった人々にお話をしたいと思われたからです。

まだ仕事中の彼にとって、自分には何の益にもならない事です。

一晩中漁をして疲れている彼にとって、いやな事です。

 キリストのために、敢て自分には損と思われること・・・それが十字架です。

ペテロはキリストの言葉にしたがいました。

なぜなら彼は、すでにキリストをある程度知っていたからです(ヨハネ1:40、ルカ4:39)。

キリストに愛されている者であるならば、キリストの言われる十字架を喜んで担うベきです。

自分のために担う十字架があります(4節)

 次にキリストは、「網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

誰の為でしょうか。

漁師を仕事としている彼自身の為です。

魚を取り、食べて生きて行くために日々私達は十字架を担うベきです。

その十字架も、キリストが負わせておられるものです。

「自分で得たパンを食べなさい」(Ⅱテサロニケ3:12)。

その十字架を担う私達をキリストは応援してくださいます。

人々のために担う十字架があります(8~11節)

キリストはペテロに「あなたは人間をとるようになるのです」

と言われました(10節)。

つまり、人々に神のことば(福音)を伝えるという十字架です。

「群衆が押迫るように」渇いて神のことばを聞いたとあります(1節)。

時代は変わっても人々の心の渇きを癒すものは、救いを与える福音だけです。

十字架をになったらどうなるでしょうか?(6~7節)

 ペテロは損しませんでした。

それどころか想定外の収穫がありました。

十字架を担った者のみが味わう「主の素晴らしさ」があります。

御国に向かう生涯(2)    ローマ8:31~34

 この世で生活する私達に衣食住が必要です。

御国に向かう生涯には見えない衣食住が必要です。

それは、潔い衣、キリストのみ言葉、天幕生活です。

その私達のためにキリストは今もとりなしておられます(34節)。

とりなしとは

相対立する関係にある2者を仲介することです。 

アブラハムの甥のロトはソドムの町に住んでいました。

そのソドムが神によって滅ぼされるという事を知ったアブラハムは、ロトが神の怒りに会わないように祈りました(創世記18章)。   

キリストはとりなしておられます

①それは、父なる神と神に背いた私達罪人を結びつけるという贖いの御業です。

キリスト自ら十字架の上で私達を罪から贖うために犠牲となられました。

「(神の)敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:10)。

その贖いは、父なる神の御業でもあります。

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ・・・ました。」(Ⅱコリント5:18)。

つまり、キリストはご自分のいのちを投げ出され、父なる神も御自分の独り子を私達のために投げ出されたのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。

②父なる神の右に座してのとりなしです。

私達のクリスチャンとしての歩みを完成してくださるとりなしです。

「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。

キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:25)。

さらに私達の日常の衣食住を含めて全ての必要を満たすとりなしです(ローマ8:32)

 キリストのとりなしの中に生かされていることを思い、御国への旅を続けましょう
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