御国に向かう生涯(1)  コロサイ3:8~17

 私達は神の招待を受け、御国の都に向かって天幕生活をしている者です(ヘブル11:8~16)。

その私達に主はふさわしい服を用意しておられます。

この世でいつの間にか身に着けていた服があります

それは、「不品行、汚れ、情欲、そしてむさぼり」などです(5節)。

また「怒り、憤り、悪意、・・恥ずべきことば」などです(8節)。

御国に向かう私達の着る服があります

「同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容・・赦し」です(12~13節)。

また「愛、キリストの平和」があります(14~15)。

新しい服を着るために大事なことがあります

それは、決して難しい事ではありません。

①古い服を脱ぎ捨てましょう。

汗をかいたままでいると、着替えたいと思います。

キリストとの交わりの中で、私達は汚れた服を脱ぎたいと思います。

その潔い思いが謙遜と愛にまとわれた生活の出発点となります。

②新しい服は準備されています。

すでに「造り主のかたち」(10節)であるキリストが来て下さいました。

そのキリストのうちに新しい服は備えられています。

古い服は世の人との交わりで身に着きました。

同様にキリストとの交わりを通して、キリストの柔和と寛容が身について来ます。

③日常生活の中で新しい服を身につけられます。

ダビデはゴリアテと戦う時に、サウルの鎧を拒否しました。

自分が羊を飼いながら身に着けた道具があったからです(Ⅰサムエル17章)。

日常生活の中で冷たい言葉をかけられた時や、自分の思う通りに事が進まない時があります。

その時は新しい服を着るチャンスです。

怒りが込み上げてくる時、イライラする時、「造り主のかたち」であるキリストを見上げましょう。

普段の生活の中で、愛や寛容がかたちとなって身について来ます。

 御国に向かう生涯にふさわしい服を身に着けましょう。
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天幕生活をしよう  ヘブル11:8~16

 天幕(テント)で過ごしたことがあるでしょうか?

1~2晩なら良いのですが、毎晩テントで過ごすことになると大変です。

 アブラハムはみ言葉に従って故郷を離れました。

そして、「天幕生活をしました」とあります(9節、創世記12:1)。

この天幕生活は信仰生活を表しています。

[1]天幕は立てる場所が大事です

テントを立てる際には、大水に流される地でないこと。

杭をしっかりと打ち込める地面であるかが求められます。

つまり、土台が大切なのです。信仰生活にも大切なのは土台です。

それはキリストの十字架です。

世の嵐にも大水にも流されない十字架を土台としているか、クリスチャンは常に心を留めるべきです。

[2]天幕では環境の厳しさを体験します

毎日テントで暮らすならば困難を感じます。

信仰生活にも困難はつきものです。

しかしその境遇の厳しさが信仰を強めることになります。

「私は・・・富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)。

[3]天幕は直ぐに移動できます

アブラハムは、神からのみ言葉を聞くとすぐに出かけました(8節)。

これが信仰の天幕生活です。

この世のことや自分の欲に捕らわれず、私達はいつでもみ言葉によって動く信仰を持つべきです。

[4]天幕は真の住家に対する希望を起させます

 ずうっとテントで暮らしていると、やはり立派な家に住みたいと思うようになります。

信仰の天幕生活を通して私達は真の住家である天の都を待ち望むことができます。

多くの旧約の聖徒たちが、同じように天の都を求めて生活しました(10~16節)。

彼らの信仰生活に学びましょう。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした

事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」
                        (16節)

神の招き    ルカ14:15~24

 病院の待合室で、数か月前まで病室を共にしていた方に会いました。

彼女は「私は春の園遊会に行って来たのよ!」と言いました。

彼女が天皇陛下から招かれて、皇居に行ってきたと聞いて驚きました。

しかし、よく考えると私自身はもっと貴重な体験をした者です。

全地の王であり支配者である神に招かれているのだと今さらながら覚えました。

 今日の聖書の個所に「盛大な宴会」に招かれた人々が登場します。

当時のユダヤの世界では、宴会を催す時には、まず使者を遣わして招待状を出したようです(16節)。

さらに、宴会当日にも再度招きを行いました(17節)。

その2回の招きを断った人々が居ります(18、19、20節)。

この事は、神様の招きを私達がどのように受け止めるべきかを語っています。

神の御国の宴会が準備されています

 ここに出てくる「盛大な宴会」とは、神の国で私達が味わう喜びのことです。

幸いな人は神の国の食事を味わう人です(15節)。

私達には神の招きを受けるか否かの選択の自由があります

神は、全ての人を御国に招いておられます(21~23節)。

そのために、神は悔い改めて立ち返るように招いておられます。

「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」(ローマ2:4)。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。

私達は、その救いの招きを受け入れる決断をしました。

そこが、神の国の宴会の入り口だったのです。

さらに、御国に入るまで選択しなければならない事も起こります。

神の招きは常に最優先されるべきです

 宴会の招きを断った人々は、結局天国の喜びを味わう事が出来ませんでした(24節)。

彼らは、神の招きよりも日常生活の様々なことを選びました。

勿論これも大切なことです。

しかし、主の弟子として私達は成長しなければなりません。

何を優先するかが大事です。

主の愛の招きに応える日々でありますように。

網をおろしなさい   ヨハネ5:1~11

 キリストが活動された一つの場所は、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)です。

私の見た感じでは、鹿児島湾の北部(鹿児島市と桜島を結ぶ線から北側)と同じような景観です。

周辺に温泉もあります。

違う点は、ゲネサレ湖は淡水湖であることと、海面下200メートルに位置するということです。

その湖でキリストは奇跡を行なわれました。

ペテロ達は夜通し漁をしましたが何も獲れませんでした。

そのペテロにキリストは「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」と言われました(4節)。

ペテロは「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えて網をおろします(5節)。

結果は、網が破れそうになるほどの大漁でした(6節)。

ペテロが、キリストの言葉に従って網をおろしたことは、並大抵のことではありません。

なぜなら・・・

[1]彼は夜通し網をおろしていました

もうこれ以上網をおろしても無駄であることをペテロは知っていました。

そして、疲れ果てていました。

それでも網をおろしました。

何度失敗しても、キリストの言葉にはさらに挑戦する価値があります。

[2]彼はプロの漁師だからです

 “漁師だから”網をおろすことは簡単にできるはずです。

しかし現実は、プロの“漁師だから”出来ないのです。

魚は昼間湖の底にいます。

網で取ることは不可能です。

プロの漁師であるペテロはそれを知っていました。

にもかかわらず、彼はみ言葉に従いました。

自分の知恵や考えを捨ててみ言葉に従ったのです。

[3]彼は大漁と言う結果を見る前に網をおろしたからです

結果はキリストが与えてくださるものです。

私達が為すべきことは、ただみ言葉に従って行動することです。
 
今日、主のみ言葉に従いましょう

主を見つめよ  ヨハネ14:1~9

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」(詩篇34:8)

「見つめよ」・・それはキリストを見つめる事です。

トマスやピリポは、長い間キリストを見ていました。

しかし。「見つめて」はいませんでした。

ですから、キリストの言われることが分かりませんでした(5節、8節)。

[1]キリストが言われる「場所」が分かりませんでした(1~5節)。

それは、「父の家」である御国の事です(2節)。

キリストは父の元に行き、私達のためにその場所を備えて私達を迎えると言われました(3節)。

この場所こそ私達の目標です。

目的地を知らないで人生と言う旅を続けるならば、それは空しいものです。

キリストを見つめ、自分の行く先を見ながら日々を送りましょう。

[2]父なる神のもとに行く道が分かりませんでした(5~6節)。

キリストを見つめる時に、その道が見えてきます。

それは、キリストの十字架の贖いの道であり、信仰によって歩む道です。

[3]何よりも、「父なる神」が分かりませんでした(7~9節)。

ピリポは「父(なる神)を見せてください」と言いました(8節)。

人間の考える神は見ることの出来る神、奇跡を行う神、自分に満足を与える神です。

人間の手で神を作ることも出来ます。

しかし、キリストは「私を見た者は、父をみたのです」と言われました(9節)。

キリストの生涯が神を示しています。

聖書を通して、そのキリストを見つめ、キリストを通して私達は神が見えてきます。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です」(コロサイ1:15)。

1節でキリストは「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。

この「信じる」の原語は「信じ続ける」という意味です。

神は、ずっと信じられる真実なお方です。

天地創造、全能の神、潔い神です。

また、キリストが「父」と呼ばれたように、私達にとっても「天のお父様」と呼べる親しいお方です。

キリストを見つめる時、父なる神が見えてきます。

自分の歩むべき道がわかります。

永遠の御国が見えてきます。

キリストを見つめましょう
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